Taros’s diary

学級通信のねたの参考にしてもらえば思います。

担任をすると教員としての世界観が変わる は うそ

今回のテーマは、「担任と副担任

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担任、副担任以前に一人の教員として生徒と向き合う!


」です。

 

 担任をもつことに美徳に感じている教員は少なくありません。そんな価値観を押し付けてくる人は職場にいませんか?もしいたらスルーしましょう。

 

 そもそもですが、私達の仕事のメインは教科を教えることになりますので、教材研究に力を入れて生徒の関心や学習意欲を高めることが本来の仕事なのです。担任をしているから立派なわけではありません。ましてや一人前でもないのです。

 

 今回は私の浅い経験から感じたことを話ます。その上で担任をすべきかの判断していただければと想います。

 

 誤解が無いようを伝えておくと、別に担任は、「やらない方が良い」と言いたいわけではありませんので、注意をしてください。それでは本題に入ります。

 

 まず担任ですが、別にこちらは本当にどちらでも良いと想います。やりたいもやらないも‥

 正直、担任には担任の良さがありますし、副担任には副担任の良さがあります。注意していただきたいのは、担任をすることで自分の居場所や学級王国をつくろうとすることです。良く会話をしていると、担任が自分のクラスを居場所と思っている人がいます。そもそも我々の居場所は、教科指導(授業)です。また、学級王国をつくろうとしている人もそうです。

 あくまで、個人的な解釈ですが、居場所や王国をつくろうとしている人達は、あまり教科指導力が無いように見受けられます。だから、担任の先生=自分達にとって都合の良い先生、と認識させ自分の存在価値を高めたり、教科指導よりも生徒を従わせることの方が楽ので、そちらに逃げているように見えてならないのです。

 

 申し訳ないです。話が逸れました。本当に言いたかったことはこちらです。

 

 担任をすることで、その先生の良さが出る人もいれば、副担任をすることで輝ける人もいるのです。しかし、担任は素晴らしいという勘違いが生まれてしまう原因も少なからずあるのです。それは担任は忙しく、副担任は楽をしているという勘違いです。現状的に、仕事の多さではそうなのですが、だからと言って担任をすることが、素晴らしいことにはならないのです。なぜなら、副担任は自由度が高く担任以上に動けるからです。

 

 私は副担任をしている時に、良く生徒から仕事を頼まれました。それも自分の担当していないクラスからもです。運動会や音楽祭のクラス掲示用のポスター作るときの機材を用意したり、担任の先生に贈るプレゼントを作るときや生徒会担当の子から物の修理を依頼されたり、とにかくコキを遣われることが多かったです。また、担任の先生達も人使いが荒く、クラスのためになることをするために、私を良くアゴで使っていました。このとき、私は担任でなくても十分楽しかったですし、自分の居場所がありました。というよりもコキを遣われるために、教員生徒問わず快く頼まれたことを引き受けていました。それでも副担任は楽なのか甚だ疑問に感じます。

 言い方は悪いですが、担任は結局やらなければならない仕事をするだけでもあるのです。一方で、副担任は明確な仕事も決められていないので、やり方によっては担任よりも忙しくなるのです。

 

 私からすれば担任の良さはあまり感じません。それよりも副担任で多くのクラスに顔を出して遊んでいる方が遥かに楽しいのです。副担任をしている時に、スローガンに自分の名前が入ったり、副担任でないクラスの生徒達から、自分達のクラスの副担任と勘違いされたり、副担任でも十分に居場所をつくれまし、むしろ担任よりも多くの居場所をつくれます。ですがそれは、自分で居場所をつくるために行うのではなく、自然と自分の居場所ができていた、なのです。

 

 

 しかし、これを知ることができたのも異動がきっかけでした。

 

 私は異動し、離任式に参加し、そこで初めて気がつくことができたのです。私はその職場ではずっと副担任でしたので、生徒達もまあそこまで気にかけていないのだろうと思っていました。ですが、自分の異動に対して驚いてる生徒も多く、動揺する姿が目立ち、ざわつきが隠せなかったことを後から耳にしました。前職場の人からも自分がいなくなったことが、生徒達に大きな影響を与えたと言われました。生徒達にとって自分の存在は大きなものであったと伝えられました。そこに居て当たり前の存在だったと言われました。

 私自身も驚きました。私に再会した生徒が涙していることに‥私という存在を必要としていることに。私自身の思いやりの気持ちが伝わっていたということに。生徒にとって私がかけがえのない存在であったことに。

 

 担任、副担任ではなく、自分が一人の教員として生徒に何をしてあげられるか、何を与えてあげられるか、どう向き合ってあげられるか、心から真摯に接してあげられるか、それが重要なのです。生徒にとって自分という存在そのものが居て当たり前と想ってもらえれば、そこに担任も副担任もないのです。あくまでも担任を主張したい人は、マウントを取りたいに過ぎず、尊敬に値する教員ではないのです。真に尊敬すべきは、知らず知らずのうちに生徒にとってかけがえのない教員になっている人なのです。

 

 悲しいことに自分達に自身のある教員(客観的に考えることができない教員)に多く見られる傾向が、そのように日々努力を惜しまずに生徒と向き合っている教員に対して、見下したりバカにし、自分よりも劣っていると勝手に判断するのです。いざ、生徒にとってかけがえのない教員が居なくなり、生徒の反応を見て何であいつが居なくなったことでここまで動揺するのかと疑問を感じるのです。

 それもそうです。自分が見下していた人間なのだから、そういうことしか思わないのです。だから、くれぐれも注意してほしいのです。担任、副担任が私達の存在価値を高めるものではないと。あくまで日常の学校生活で、1人ひとりの生徒とどう向き合っていくべきなのか、そこが重要なポインであると。