Taros’s diary

学級通信のねたの参考にしてもらえば思います。

教員が知らない残酷な真実

今回のテーマは、「発達障害」です。

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発達障害について何時間語ることができますか?語れないのに発達障害という言葉を使いますか?

 みなさんは発達障害と聞いて何を思い浮かべますか?注意欠如(欠陥)多動性障害、ASD、LDなどそういった言葉を連想するでしょうか?一般的に取り上げられている用語としてメジャーなものはそれらに当たると思います。

 

 では、そもそも「発達障害」とは何なのか、教員のみなさんは具体的に答えることはできますか?

 

 授業に集中できなければ発達障害ですか?忘れ物が多ければ発達障害なのですか?人の立場で、ものごとを考えられなければ発達障害ですか?同じ注意を何度も受ければ発達障害ですか?

 

 私は常々、疑問に思います。果たして本当に上記のようなことに該当すれば、それが発達障害になるのかと‥みんなと同じことができなければ、発達障害なのかと‥再三に渡って自分自身に問いかけます。発達障害とは、何をもってして発達障害なのかと。

 

 そもそも、「障害」とは「不自由さを感じること」です。子ども達は発達の段階で、不自由さを感じ、それを外部の力をかりて解決したいと思っているのでしょうか?仮に発達に課題があったとしても、本人が困っていなければそれを障害と呼べるのでしょうか?その際、本人や保護者の方に真実を伝えたとして、外部とのつながりを必要としてないことも踏まえて、それでも困っていなければ、それを障害と判断して良いのでしょうか?ここでは、今回は、その子が将来的に、自身にあったサポートを受けなければどうなるかは置いておきます。

 

 私が今回伝えたいのは、「発達障害の捉え方」なのです。現場を見ていても発達障害の認識や正しい知識がない人が多くいるように見受けれます。だから、今回そのようなテーマを題材にしブログを書くことにしました。

 

 発達障害という言葉が生まれた理由として、産業革命が関わっています。それが起きたことにより、「労働者」が必要となりました。その「労働者」を育てるために、日本の教育が「指示通りに動ける人を育てる」になり、それができない人は、おかしいや問題がある人となってしまい、「発達障害」という言葉が生まれるようになったのです。

 

 つまり、産業革命がきっかけとなり発達障害という言葉が生まれ始めたのです。それまでは、「障害」なんて言葉はなく、どんな人でも職に就けていたと耳にしたことがあります。

 

 私は、この「発達障害」の一番の問題として、「誰が一番不自由さを感じているか」それが感じたと考えています。

 

 あくまで主観ですが、「教員」が、一番発達障害に対して不自由さを感じているように見えます。正しい認識ができていないがために、「言うことを聞かない生徒は問題児扱いする」教員がいます。何かができければ、発達に問題があると言い訳をし、自らの指導力を上げようとしない人達も見受けられます。生徒達に課題があるのでしょうか?私はそうは思いません。勉強不足の教員の方が余程立ちが悪いと考えています。

 

 私が結論として一番伝えたいことは、「人間はみんな違う生き物(個性)である」ことです。人間はその人に合った生き方、考え方、働き方、人付き合いの仕方があります。決して1人ひとりが同じ人間であるわけがないのです。産業革命のしがらみから解き放たれ、新たな教育の価値観を生み出して、生徒を立派な大人へと成長させてほしいです。

 

 何より自分が苦手とする、問題を抱えていると思う生徒を寛容に受け入れ、その子の特性を理解をしてほしいと想っています。それができれば、「指示が聞けない、言うことを聞かない」など次第に、そのような言葉を教員側が使わないようになります。うまくいかなくても、「そういう人もいるよね」と気楽に考えれば良いのです。

 

 どうか、発達障害という言葉に変な先入観やマイナスなイメージをもたず、常にその言葉がどうして使われているのか考えてほしいのです。だから、発達障害という言葉を安易に使わないでほしいとも想っています。